• 「東亰」作品紹介

  •  東京の北東エリア。周りを川(荒川、隅田川、旧中川、北十間川)に囲まれた三角地帯に向島の街が広がっている。
    今も向島には、戦災やバブル経済の時期をすり抜けた、古い木造住宅、長屋、町工場、入り組んだ路地迷路が奇跡的に残っている。
    その風景の中に入っていくと、すぐに方向感覚をなくしてしまう。迷子のように街をさ迷っていると、人が都市に棲息しながら積上げてきた、奄星色しない景色の古層が見えてくる。
    東京の中、日本の中から消えてしまった、都市の原風景が懐かしい記憶となって建ってくる。
    その懐かしさは、昭和の懐かしさを通り越し、そのまま大正や明治にまで遡っていくようだ。
    明治維新を迎えた江戸は、京都に対する東の都として、東京と改名された。しかし、この名に異義を唱えた江戸の人たちは、京の字に横棒を書き加え、自ら東京 (とうけい)と呼んだ。東京は明治の初頭にかけて使われていたのだが、その名はいつしか霧のように消え果ててしまった。
    明治の中途で姿を眩ませた街・東京。そんな幻のような原風景の街を現代の向島に視た。

    2006年 (H.18) 4月24日
    中里和人

     

     東京の北東エリアに位置し、周りを川に囲まれた3角地帯・向島の町の点景を収めた写真集である。
      ページを開くと目に飛び込んでくるのは狭い路地に建つ小さな小屋や工場、それに煙突やらブロック塀など懐かしい下町の風景だ。
      と、どこにでもある下町じゃん?と思いがちだが、向島というのは、そんじょそこらの下町とはちょっと違う。 というのも、向島は戦災を逃れた町。東京が、都市へと成長していく過程の中で取り残されてきた、町の 〝骨格〟 を今に残しているのだ。
      たとえば蛇行する路地に沿って建つ民家。くねくねと迷路のように曲がる路地など今では滅多にないが、さらに所々、風呂場部分や物置らしき家の一角が路地に せり出し、道をより狭くしている。他にも変電所や住宅の門扉の奥に見える鳥居、アーケードの下に立ち並ぶ店舗兼自宅……。
      若い世代には、活気のない、時の止まった町のように見えてしまうかもしれないが、それはある意味正しい。これこそが、町の原風景なのだから。
      でもその原風景は、かつて東京を、トウケイと呼んだ頃のもの。中里氏いわく、「明治維新を迎えた江戸は京都に対する東の都、東京と改名されたが江戸の人た ちはこの名に異議を唱え、京の字に横棒を一本加え東京(トウケイ) と呼んだ」、幻の町の原風景なのだ。
      さて、この写真集の面白さは そんな幻の町の原風景の切り取りもさることながら、実際に向島を歩いていると出くわすだろう、ユニークな〝物体″ の活写にある。
      一見、チェロと見紛うブルーシートで梱包した工場機械。自転車の上に無造作に干された夏用のシーツ。家の壁をつたうアロエの群生。ドラム缶の中で勢いよく 燃える火……。都市部でやろうものなら、間違いなく通報されそうなモノが勝手に放置されているのだが、絶妙な配置であるため、ここでは一種のオブジェと化 しているのである。
      うーん、なるほど。向島はどうやら層の厚い町らしい。表層にあるのは、歩いていれば勝手に目に入る町に残る〝骨格〟部分。でもその下にオブジェ化した廃棄 物だとか、古い窓枠だとかが存在する層があって、そこを見ようとするなら層の周波にチューニングしなければならない。歩く人のチューニング次第で、見える 世界が違っ
    てくるのが向島の町なのだ。
      2011年、向島に第二東京タワーが立つ。町が消えてしまう前に見ておかねば! と散歩心をかきたてる写真集であった。

    文=原田かずこ

    「散歩の達人」2006年 (H.18) 9月号

     

    In Tokyo’s northeast, enclosed by four rivers: the Arakawa, Sumida, Kyu-nakagawa and Kita-jukken, is a roughly triangular urban tract known as Mukojima.
    The district today is an involved maze of alleys lined with old wooden dwellings, row houses (or nagaya), and workshops that have miraculously sidestepped the ravages of both the Pacific War andthe economic bubble of the late 1980s.
    Enter the convoluted milieu of this town and soon all sense of direction is lost. Wandering astray through the streets you can sense the accumulated strata of the life of the city in their yet un faded colors. An original city landscape now vanished from Tokyo – vanished from Japan – comes back to life, drawing forth a sigh for things that are now only memories.
    It is a nostalgia that bypasses a full three quarters of the twentieth century, going back to the Taisho era years surrounding the First World War, and beyond to Japan’s late nineteenth and turn of the twentieth century Meiji era.
    The Edo era of the Tokugawa Shoguns gave way in 1868 to the modernizing Meiji era. At this point the city of Edo took on the name 東京 (tokyo:”eastern capital”): an expression of its relationship to what till then had been the capital of 京都 (Kyoto: “capital metropolis”). But the peopleof Edo objected to their city being styled no more than an eastern version of the now eclipsed Kyoto,and added a distinctive extra stroke to the iho make /if. This altered character for ‘capital’ was pronounced ke1′, making for 東京, or Tokei. The name Tokei was used at the beginning of the Meijiera (the end of the 1860s through to the 1870s) but eventually faded into thin air.
    Tokei: a city shrouded over by history midway through Meiji. Yet I found that phantom cityinpresent day Mukojima.
    I would like to thank the many people who provided me with invaluable assistance at the time ofthis book’s publication, particularly Kudo Masao, printing director, and Watanabe Shinji, designer.My heartfelt gratitude goes out also to Endo Kiyoshi of the Mokudosui Gallery, whose generosity made the launch of this photograph collection possible.

    Nakazato Katsuhito April 24, 2006

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