• 「路地」作品紹介

  • 路地の記憶をたどっていくと、故郷の三重で見た、港町の鳥羽、門前町の伊勢、商人町松坂の、商店や民家を結んでいたほの暗い路地裏の光景が蘇ってくる。
      子ども時代を過ごした昭和三十年代は、一歩街に入ると狭い路地だらけで、街の路地というより路地の街という表現がぴったりしていた。
      ここ十年余り日本を巡り、路地の街の痕跡をとどめた光景に出合うと、ふとカメラを向けてきた。通路としての路地のほか、路地をぬける途中に見え隠れしてい た近景、遠景、建物や塀の細かな表情、猫や植物など、自分の見たかった路地の街がいつの間にか集まってきていた。
      とくに2000年、東京・向島と沖縄・那覇の路地に出合ったことは大きかった。東西の両横綱と呼びたくなる路地迷路を歩けば、体が街の中に溶けてさ迷う快感を味わうことができた。今もこの国は路地のクニであった。

    2004年 (H.16) 11月
    中里和人

     

    視線
    南伸坊(イラストレータ-)

      中里和人氏には「小屋の肖像」という写真集がある。作業小屋や物置に使われる粗末な小屋を、日本中歩いて収集したような写真集。
      噂を聞いて、へえ、そんな写真集ダレが買うんだろう、と思っていたら家人が買ってあるという。
      見るとイイのだ。一軒一軒 の小屋の、まさに肖像である。それが美しい。こんなみすばらしい「小屋」が鑑賞の対象になる。
      今度の「路地」も、家人が買ってきた。広告を見て、目指して買いにいったという。この人は、期待を裏切らない。路地が写っている。たいがいは人気のない、 通が写っているのだが、ある気配が感じられる。そしてそこを歩いていく自分の息遣いが聞こえてくるような写真だ。私はどうも道に迷っているらしい。次々に 様々な路地に 出ていくのに、どこもひどくなつかしい。
      なつかしい。という精神の状態とはなんだろう。とくに風景にそれを感じている時の心のありようというのは説明 しづらい。
      そこを知っているはずではないのに、そこを歩いたことなどないのに、強くひきっけられている。
      この写真集はまたも新しい見る楽しみを与えてくれた。

    朝日新聞 2005年 (H.17) 1月9日

     

      タイトルは、ただシンプルに「路地」。とはいえ、昔かたぎの人々が肩を寄せ合って暮らす、生活空間としての路地を撮っているわけではない。ここでの「路地」とは、むしろ裏界への通路と言った方がよい。
      夕暮れ時の狭い路地の先には、どこにでもありそうな、しかし不思議な世界が広がる。レトロな洋品店に 人待ち顔でマネキンがたたずむ。古びたトタンやモルタルがいい味わいを醸し出すかと思えば、屋根も壁も緑に覆われた奇妙な家に出くわす。そんな路地を歩く 人の姿を、ひさしの上から猫が見つめている-。
      ある人には歩き慣れた道であっても、他の人にとってはそうではない。<一瞬にして、日常の路地が、 超日常なハリポテ風世界に転換>するゆえんである。
      そうした見知らぬ路地に迷い込む、かすかな不安とひそやかな快感を、本書はページをめくるごとにありありと思い出させる。路地という名の迷宮を追休験させる、写真集の姿をした迷宮とも言えようか?

    読売新聞 2005年 (H.17) 1月23日 評者/前田さん

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